万十屋|ONLINE SHOP は、現在準備中です。

もつ鍋の起源は、

「朝鮮半島からの伝来」や

「筑豊炭田での炭鉱労働者のスタミナ食」など、

様々な説が語られています。

そのうちの一つとして、

当店「万十屋から広まった」

という説があります。

- 始 ま り -

万十屋の歴史は、

店名の通り「饅頭」から始まります。

明治時代後期、現在の早良区四箇の地で、

松隈イトにより、万十屋の前身となるお店を

饅頭事業として創業しました。

当時の博多弁では、
「〜さん」を「〜しゃん」と呼ぶ文化があり、
地元では「イトしゃん饅頭」と呼ばれ、
地域に親しまれていました。

- 都 地 河 原 へ の 移 転 -

1920年代前後、経営する饅頭店を、
後にもつ料理店を創業する地、 "都地河原"
(とじがわら:現在の早良区四箇1丁目)へ移転。


都地河原の地名にちなみ
「都(みやこ)まんじゅう」
という屋号で、店を営業します。


当時、周囲は一面の田んぼで、

精米所が二軒と衣料品店が一軒ある程度の、

のどかな土地で店を構えることとなりました。

- も つ 料 理 へ の 事 業 転 換 -

1941年12月、太平洋戦争が始まると、

次第に日本全体は深刻な食糧難に陥り、

饅頭の材料である小麦粉や砂糖が
極めて手に入りづらくなったため、
饅頭で商売を続けることが困難になっていきます。

そんななか、佐賀の唐津から
当時はまだ「不浄のもの」と見なされることもあった
牛もつを売りに来た商人と出会います。

当時の日本では、牛や豚の内臓を食材として
活用する文化はほとんど根付いておらず、
「放るもの(ホルモン)」
と呼ばれるほど価値の低い部位とされていました。

しかし当時の食料難を受け、
松隈イトの娘である松隈ハツコは、

「この不浄の食材を一般の人でも美味しく食べられるように」
と、饅頭の代わりに「もつ」を使った商売へと
事業を方向転換させます。

- も つ 料 理 の 開 発 -

しかし、
もつ料理の開発は、
一筋縄では行きませんでした。


もつが一般的な食材ではなかった当時、
内臓特有の強烈な臭みを消すのは
容易ではありません。

調達できる食材が限られるなか、
その時々で用意できる調味料を駆使し、
洗濯板を使ってゴシゴシともつを洗うなど、
現在では考えられないような、
あらゆる方法を実践し、試行錯誤を繰り返しました。


こうした試行錯誤を重ねた末、
1943年、もつ料理を提供する店として
「都屋(みやこや)」を創業しました。


この「都屋」こそが、
現在も続く万十屋の原型となったお店です。

都屋(現:万十屋)の初代女将・松隈ハツコ

当時は自宅の一角をお店として営業していました。

当時は仕入れられる食材に限りがあるため、

現在のように決まった調理法は存在せず、

その時々で手に入る食材や調味料を、

もつと一緒にアルミ鍋で煮込んで

お客さんに提供していました。


この鍋料理は、

美味しく栄養を摂れる事から

次第に地元で評判を呼び、

都屋のもつ事業は少しずつ軌道に乗ります。

そして、このもつを使った都屋の鍋料理が、
現在では福岡を代表する食文化となる
「もつ鍋」の原型のひとつになった、
と伝えられています。

-「 万 十 屋 」へ 改 名 -

「都屋」として営業をはじめ、
もつ事業も順調に軌道に乗って以降も、
地元では未だに「まんじゅうや」
として広く認知されていました。

これを受け、
和菓子の "饅頭" ではなく、
漢数字の "万十" と表記し、
より地域に親しまれるよう、

「万十屋」を正式な屋号として採用し、

今日までにいたります。

- 正 式 な レ シ ピ の 完 成 -

二代目女将・松隈幸子

1960年代頃になると、

戦後の混乱も落ち着き、

食材や調味料も以前より

安定して手に入るようになります。


この時期に、二代目女将・松隈幸子は、

万十屋の正式なレシピの開発に取り掛かり、

お客さんの反応を見ながら試行錯誤を繰り返します。


そして、現在にも続く

キレのある醤油ベースのタレで、

キャベツ、玉ねぎ、えのき、ニラなどの野菜を

牛もつと一緒に炊く、独自の調理法を確立しました。


こうして正式な鍋のレシピが完成すると、

万十屋は以前にも増して客足が増え、

地元の名物料理として繁盛しました。


この秘伝の醤油ダレをベースにした鍋は、
次第に「すき焼き風もつ鍋」
として親しまれるようになり、

現在まで受け継がれる
万十屋の看板料理となりました。

- 石 鍋 の 導 入 -

創業後、しばらくはアルミ鍋で

調理をしていた万十屋のもつ鍋も、

程なくしてアルミ鍋よりも丈夫な「鉄鍋」

に切り替えて、もつ鍋を提供していました。


そして80年代後期、

現在の提供スタイルである「石鍋」

へと切り替わる転換点が訪れます。


当時、博多もつ鍋の〆として

定番化していた「ちゃんぽん麺」は、

既に万十屋でも提供をしていました。

そんななか、あるお客さんの発案から、

鍋にご飯と卵を入れ「おじや」のように

〆を楽しむという食べ方が生まれます。


このお客さんの発想で生まれたおじやは、

現在では "ビビンバ風おじや" として

万十屋定番の〆料理へと定着しましたが、

「ちゃんぽん麺」の後に

「おじや」を楽しむという構成は、

当時使用していた鉄鍋では

一つの問題が生じました。


それは、

「鉄鍋で調理を続けるうちに、スープが蒸発しすぎてしまう」

ということです。


アルミ鍋に比べると熱伝導率が低く、

保温性にも優れている鉄鍋ですが、

万十屋のもつ鍋はもともとスープの量が少なく、

そこへ「ちゃんぽん麺からおじやへ」という、

〆を二段階で楽しむ食べ方が加わったことで、

長時間火にかけているうちにスープが蒸発し、

最後のおじやまで十分に楽しめない

という課題が生まれました。


そこでより熱を蓄え、温度を長く保ちやすい鍋として白羽の矢が立ったのが、

当時日本では珍しい「石鍋」でした。


厚みのある石鍋は、一度温まると冷めにくく、

火加減を抑えても鍋全体の温度を保ちやすい

という特性があります。

この特性は、

スープの量が少ない万十屋のもつ鍋で、

ちゃんぽん麺、そしておじやへと、

最後まで鍋を楽しんでもらう、

という提供方法と非常に好相性でした。

こうして万十屋は、

鉄鍋から石鍋へと切り替え

現在まで続く提供スタイルが形作られていきました。

- 檀 太 郎 氏 の エ ッ セ イ -

福岡の片田舎にあるローカルフードとして

繁盛していた万十屋ですが、

1980年代に入ると大きな転換点が訪れます。


そのきっかけとなったのが、

エッセイストの檀太郎(だん たろう)氏です。


万十屋の常連であった檀氏は、

当時ANA(全日空)の機内誌『翼の王国』にて、

長年にわたり旅や食に関する
エッセイを連載しており、

その中で当店「万十屋」を紹介。


この記事をきっかけに、万十屋は

全国から大きな注目を集めることとなります。

檀氏が書いた記事の影響力は凄まじく、

当時まだ住宅街にあった「万十屋」に

全国から客が押し寄せ、

大行列ができる事態に発展しました。


あまりの混雑に、

騒音や駐車場の問題で二代目女将・松隈幸子は

「針の筵に座るような気持ちだった」と語り、

一時は廃業も考えたといいます。

この出来事から、1994年、

近隣へ配慮をし、現在の早良区田村へ移転。
檀氏の紹介により、

後に新国立競技場などを手がける

建築家・隈研吾氏による店舗設計が行われました。

- も つ 鍋 の 全 国 的 ブ ー ム -

檀氏による紹介などをきっかけに、

万十屋には福岡県外からも

多くのお客さんが訪れるようになり、

その後はテレビ番組などでも

紹介されるようになります。


一方、1980年代後半の福岡では、

もつ鍋を提供する店が次々と増え、

街のいたるところでもつ鍋が

親しまれるようになっていきます。


そして1990年代初頭になると、

東京にも「博多風もつ鍋」を掲げる店が登場。

バブル崩壊後の時代背景も追い風となり、

「安く、ボリュームがあり、美味しい」

というもつ鍋は大きな注目を集めました。


1992年には「もつ鍋」が新語・流行語大賞の

新語部門・銅賞に選ばれるほどの

全国的なブームとなります。


こうして、福岡のもつ鍋は、

ついに「ローカル料理」から、

日本全国に知られる「福岡の名物料理」

へと進化を遂げたのです。

- も つ 鍋 の 歴 史 と 進 化 -

ここまでお話しした通り、
もつ鍋は最初から「名物料理」
という訳ではありませんでした。


少なくとも、万十屋に伝わるもつ鍋の歴史は

「嗜好品」として生まれたものではなく、

深刻な食糧難のなか、

「 人 々 が 生 き て い く た め の 術 」
として生まれた料理。


それが時代とともに姿を変え、

多くの店や人々によって育まれながら、

今日では福岡を代表する食文化となりました。

- 現 在 -

前述の通り、
現在の店舗は、
後に太宰府天満宮のスターバックスや
新国立競技場などを手掛ける、
建築家・隈研吾氏の設計により、
1994年(平成6年)に完成しました。

「室見川に浮かぶ舟」
をイメージして設計されており、
広い開口からは、このエリアを象徴する
室見川と飯盛山を望むことができます。

福岡にお越しの際は、ぜひ万十屋へ。